Memo

デジタルと建築と音楽

Post_005

171204

 僕は人より空気が読めないのだろうか。主体はあくまで第一人称であり、そこに他者が存在しない。言うなれば立体的な視点をもって、他者の後ろから自分を覗き込むことが不得手なのだろう。絵画を眺めているように他者と、その場の空気に接している。地動説に対する天動説とでも言えるのだろうか。俯瞰、鳥瞰的な目、外から自分を見るもう一人の自分が存在しないのだ。そんな自分の性質、主観的になりすぎる自分というものを理解し、きっとこうあるべきなのだろうというところはある。つまり、内省的、批判的ではあるが、客観的にはなれないのだ。熱くなったときに、クールに判断できる性質を持つ人に、強い憧れを覚える。
空気を読む、というのは、相手への理解、相互関係から予測される心情を鑑み、より良い、というよりは安定した関係性を構築するところだろう。イジメのヒエラルキーの中では、イジメの対象を除いた、イジメっ子達のエントロピーを収束に向かわせる形で空気が形成されるので、イジメが助長される。一般的に空気が読めないというのは、その収束の形、あるいはそれは発散の形なのかもしれないが、その形を予測しえない、というもの。しかし、自分はそういうわけではない、とふと思う。自分の意思がパワーを持ちすぎているため、空気を読む、ということそれ自体にエネルギーが割かれていないのだ。空気の存在を無視してしまっている。つまりは客体としての自分が存在しない、というところにつながってきた。そしてこの文章を書いている今この時も、読まれていることを想像していないのだ。